埠頭に立った晴海〔はるみ〕が回想する場面があります。
埠頭を渡る風を見たのは、いつか 二人が ただの友達だった日ね
「埠頭を渡る風」作詞:松任谷由実(12枚目シングル東芝EMI 1978.10.5発売)
この一行にも深い意味が込められていたと痛感することになりました。
「いつか二人がただの友達だった日ね」の意味を考える
「いつか」にはどんな意味があるのでしょうか。辞書を見ると4つの意味が載っていました。
1 未来の不定の時 いつか見てみたい いつか話してほしい
2 過去の不定の時 いつか会ったことがある いつか来たことがある
3 時が経ったことに気が付かない様子 いつか知らないうちに減っていた
4 過去や未来の事柄に対して、それがいつであったかという疑問、またはその反語
いつか会ったことがあったのだろうか(いや会ったことなどない) いつか出会うことはあるのだろうか(いや出会うことはない)
歌詞に出てくる「いつか」は1から4のどれが当てはまるのでしょうか。
ぺいは「過去の不定の時」が該当すると考えました。
ただし、これは辞書の意味どおりで終わるような文ではないような気がしました。
晴海〔はるみ〕が埠頭で回想しているシーンですから、不自然なところはないじゃないか、と思うかもしれません。でも、何か腑に落ちないところがあると勘のようなものが働き、すっきりしないまま2ヶ月ほど考えていました。
そして、ようやくすっきりしなかった理由が分かったのです。すっきりしなかった理由は、文の中に整合しないところがあったからです。
それはどこでしょうか?
それは文頭と文末です。詳しく言えば、文頭の「いつか」で、いつだったか覚えていないような表現をしているにもかかわらず、文末を見ると「日ね」と、まるで鮮明に日にちまで覚えているような表現をしているところです。この矛盾した表現をしていたことに、2ヶ月掛かってようやく気が付いたのです。
そのため、この文は表面的には淡々と回想しているように装っているけれども、本質は違っていて、重々しいことを暗示しているというアイロニー表現ではないかと思いました。
(※アイロニー:言わんとすることの反対を述べることによって言わんとすることをいっそう効果的に相手に理解させる表現方法「百科事典マイペディア」)
では、この文の本質的な意味は何なのかと考えてみました。
その日は明確に覚えているが、なぜ「いつか」と表現したのか?この問いに対してぺいは、「その日はうれしくて覚えているけれども、友達だったときは苦しかったから思い出したくないから」と推察してみました。これだと、歌詞の内容とも合うような気がしました。
こんなにも一行、一音の言葉に深い意味と複雑な感情を織り込んでいるのか、と実感させられました。この歌詞を考えた松任谷由実さん。本当に素敵すぎます。
「風を見た」「友達だった」の時制(テンス)について
「友達だった」とはどのような意味でしょうか。それは、「ずっと友達でしたが、何かの出来事や契機によって友達ではなくなった。(現在は友達の関係ではない)」ということを意味しています。だとすれば、絶交して、ただの知人になったか、恋人同士になったかのどちらかです。歌詞を見ると、夜に車の助手席に乗れるような間柄だということが分かります。そのため、友達から恋人同士のような関係になったと推測するのが順当です。
さて、現在の状態に至った「出来事や契機」は、「だった」という表現から分かるように、話し手の晴海〔はるみ〕が話している時刻と同じではありません。晴海〔はるみ〕の発話時よりも過去の時を指しています。文の中に述部が一つならば関係は分かりやすいのですが、この文は複文となっているため、時制が少し複雑になります。
1つの文中に2つ以上の述部がある複文の場合の時制を、どのように捉えるかという見方が2つあります。それが絶対テンスと相対テンスです。
長い文では、節(1つの述部と従属する1つ以上の成文があるもの)が2つ以上(複文)になります。その2つ以上の節を持った複文は、主節と従属節に分かれます。この場合、『埠頭を渡る風を見たのは』が主節(主となる節)となり、「いつか二人がただの友達だった日ね」が従属節(主節に依存する節)となります。
複文の場合、主節は発話時を基準時とした時制表現をする絶対テンスとなることがほとんどです。つまり、主節にある「風を見た」の時制は、晴海〔はるみ〕がモノローグとして心の中で思ったときを基準時とするならば、過去にあった出来事だとなります。
そして、もう1つの従属節ですが、相対テンスとなることがほとんどです。相対テンスは主節時を基準時とします。そのため、従属節は主節の「風を見た」ときが基準時となり、「友達だった」と表されているため、主節時よりも過去のことを指すということになります。
時系列で表せば、①二人は友達だった→②晴海〔はるみ〕が風を見たので友達ではなくなった→③晴海〔はるみ〕が今振り返っている という順になります。
敢えて「ただの友達」と表現した理由
なぜ「友達」としないで「ただの友達」と表現したのでしょうか。このことについて考えてみました。
晴海〔はるみ〕は、「ただの友達だった日ね」と心の中で風優哉〔ふうや〕に語りかけます。文末の「ね」は、風優哉〔ふうや〕が知っていると思うことがらに対して、晴海〔はるみ〕が風優哉〔ふうや〕に同意や確認を求める表現となります。
つまり、風優哉(ふうや)も知っている出来事だということが分かります。
そこから、二人とも知っていて、なおかつ晴海〔はるみ〕が「ただの友達」だということ強く認識してしまうような出来事があったのではないかと推測してみました。そして、このような出来事にはどのようなことが当てはまるか考えてみました。
そして、選択肢を2つ作ってみました。
A:晴海〔はるみ〕が風優哉〔ふうや〕に好きと告白し、風優哉〔ふうや〕から「友達でいよう」と告げられた
B:美帆〔みほ〕と仲のよい晴海〔はるみ〕に風優哉〔ふうや〕が「美帆〔みほ〕と仲良くしたいんだけど、うまく美帆〔みほ〕に伝えてもらえないか」と相談してきた
Aの場合、歌詞からうかがえる晴海〔はるみ〕の性格からして、自分から思いを伝えることはありえないと考えました。また、告白した後の2人の友達関係はギクシャクして気まずい関係になりやいと言えます。それゆえ、ギクシャクした二人が埠頭に来る可能性はあまりないように感じます。
Bの場合、風優哉〔ふうや〕から相談ということで声を掛けられることになるため、真正性(現実での起こりやすさ)が高いと感じます。また、本命の友達と相談しているうちに、その相談していた友達といつしか付き合うようになったという話はよく聞く話です
相談している友達関係であるならば、相談するために二人で埠頭に訪れることもあるのではと考えることができます。
従って、「ただの友達」だと晴海〔はるみ〕が強く意識したのは、Bの風優哉〔ふうや〕が晴海〔はるみ〕に相談したからだという結論に至りました。