「埠頭を渡る風」解説㉑ 「だから」に託した思い

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「だから」という飛躍させた接続詞に込められたもの

 「埠頭を渡る風」の歌詞に「だから、短いキスをあげるよ」という箇所があります。一見すると違和感のない言葉のように感じます。解釈を考え始めた頃は、単に幼くなった風優哉〔ふうや〕に晴海〔はるみ〕がキスをあげようとしているのだと思っていました。
 

 しかし、あるとき、この自分の解釈に違和感を覚えるようになりました。この解釈だと、晴海〔はるみ〕は、泣いた子供に母親が「よしよし」となだめてキスをするような母性愛に満ちた女性になる思ったからです。風優哉〔ふうや〕は子供で、晴海〔はるみ〕が母親のように接する女性だと考えてしまうと、この曲の持っている世界観が大きく変わってきてしまいます。風優哉〔ふうや〕が泣いたから晴海〔はるみ〕がキスをあげるというのは母性愛に基づく行為ではないと感じたのです。

 通常、母と子の関係となった場合、母性愛を発揮する母親の精神年齢は子より上となります。しかし、歌詞からは、晴海〔はるみ〕が「私の方が大人」などと思っているようなところは微塵も感じられません。むしろ、晴海〔はるみ〕は、自分が精神的に優位に立つことを避けていて、風優哉〔ふうや〕に対してマウントを取りたくないという感情を持っているようにも感じられます。
 「風優哉〔ふうや〕が泣いた」のを見て、晴海〔はるみ〕は、「だから、キスをあげる」という感情を抱くのは母性愛になってしまいます。しかしながら、晴海〔はるみ〕の思いは母性愛ではない感情だと感じました。

 このように考えると、「だから」という接続詞は、あまりにも話が飛躍していることになります。
 なぜ、ここで、なぜ、話を飛躍させる「だから」という接続詞を使ったのでしょうか。それは、松任谷由実さんは「行間に語らせたかった」のではないかと推測しました。
 ここで、俳人の夏井いつき先生の「俳句は説明を嫌う」という言葉が浮かんできました。夏井先生によると、説明する俳句はつまらなく、侘びさびもなく、芸術性がなくなるとも語っています。
 松任谷由実さんは、「だから」という話を飛躍させている接続詞を敢えて使うことによって、聴く人に想像させるという表現をしていることになります。

 では、「だから」という接続詞で話を飛躍させ、聴き手に想像させようとしている状況とは何なのでしょうか。私は、ここの飛躍に気付いてからというもの、晴海〔はるみ〕はなぜキスをあげようと思ったのか、ずっと考えていました。
 「キス」という言葉が登場するのは「キスをあげるよ」の箇所だけです。いろいろと推測をしてみましたが、一番しっくりきたのが、「感謝のお返し」でした。平たく言えば「恩返し」ということになります。晴海〔はるみ〕が、「以前に自分もキスで救われた」という思いを持っていたとしたならば、「だから」といく接続詞を使うことに対して、妥当性も整合性も高まると思えました。


 そうだとするならば、晴海〔はるみ〕は「いつ自分もキスで救われた」と思ったのか、という疑問が湧いてきました。そう思い、そのことだけに集中して曲を聴き始めました。すると、気になるところが浮かび上がってきました。それは「埠頭を渡る風を見たのは」の箇所でした。それまで、その箇所の私の解釈は、「風で埠頭の海にさざ波が起きているところを晴海〔はるみ〕が見た」のだと思っていました。でも、その解釈がしっくりこないとも思っていました。わざわざさざ波が起きることを描写する必然性といったものが薄いと思っていたからです。そして、このあたりから、風というのは風優哉〔ふうや〕のことを指しているのではないか、という考えも浮かんでいました。風のようにつかみ所のない、あっちこっちに吹くというところが、この物語の男性に合うような気がしていました。

 すると、「風を見たのは」というのは「風優哉〔ふうや〕を見たのは」ということになります。しかし、普段の風優哉〔ふうや〕であるならば、晴海〔はるみ〕はいつも見ることができます。わざわざ、風優哉〔ふうや〕を見たという解釈にするならば、特別な風優哉〔ふうや〕を見たということにしなければなりません。特別な風優哉〔ふうや〕とは何かと考えると、自分(晴海〔はるみ〕)にキスをしてきた風優哉〔ふうや〕なのではないかと、ここで結び付いたのです。

 しかし、「だから」を使う必然性の問題は、これで解決したわけではありませんでした。これだけだと、晴海〔はるみ〕の恩返しという意味が浅いからです。前にキスをしてもらったから、今泣いているあなたにキスをあげるというのでは、やはり話の飛躍が生じます。晴海〔はるみ〕が恩返しをしたいという気持ちを持つためには、晴海〔はるみ〕に辛い状況があり、それを風優哉〔ふうや〕のキスが救ったという出来事が必要になります。
 そこで考えたのが、全解釈編で表したような次のような状況でした。それを時系列で表してみます。

 ① 晴海〔はるみ〕は風優哉〔ふうや〕に好意を抱いていた
 ② 風優哉〔ふうや〕は晴海〔はるみ〕の友達の美帆〔みほ〕に好意を抱いていた
 ③ 風優哉〔ふうや〕は晴海〔はるみ〕に「美帆〔みほ〕へ自分の思いを伝えてもらえないか」と相談した
 ④ 晴海〔はるみ〕は深く傷付き、苦しみながらも耐え忍んでいた
 ⑤ 埠頭に来たとき、風優哉〔ふうや〕が晴海〔はるみ〕にキスをした
 ⑥ 晴海〔はるみ〕は苦しみから解放されたような気持ちになった

 このような状況があって苦しみを救ってもらったという事実があってこその恩返しであり、「だから」という接続詞を晴海〔はるみ〕が使えるようになったのだと思ったのでした。

 

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