「埠頭を渡る風」解説編⑬ リフレインが叫んでいるのは…その1

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リフレインで伝えようとしていること

 音楽用語ではフレーズを繰り返すことをリフレインと呼んでいます。松任谷由実さんは「リフレインが叫んでいる」という名曲も制作されています。その曲では「どうして」という箇所がリフレインされています。
 リフレインをするのはどうしてなのでしょうか。もし制作者だったらという立場で考えれば、それは2つあると思われます。

 まず,一つ目は「強調したいフレーズなのだと聴者に伝える」ためです。ドリカムさんの「何度でも」では、「何度でも」というフレーズがたくさん繰り返されています。強調している言葉が強く伝わってくると感じます。

 そして、もう一つの理由ですが、それは「フレーズの意味を変化させていることを聴者に知らせる」ためです。このいい例が日本古謡の「さくら」です。

 「さくら、さくら 弥生の空は・・・」と箏(お琴)での演奏はメディア等にも多く流れているので、皆さんも一度は耳にしたことがあるかと思います。

 さて、この日本古謡の「さくら」の冒頭は「さくら さくら」とリフレインされています。このリフレインが強調の意味で歌うとするとどうなるでしょうか。桜の持っている奥ゆかしさやはかなさというイメージは感じにくくなるのではないでしょうか。強調だと「どうだ、見ろ、ほら、見ろ、桜だ」と押しつけがましさのようなニュアンスだと受け取られてしまいそうです。となれば、この場合のリフレインは意味を変化させていると知らせていると考えた方が自然だと感じます。 では、具体的な「さくら さくら」のリフレインの意味の変化はどのようなものになるでしょうか。
 このような感じなのではと考えてみました。
「さくらがたくさん咲いているよ ほら、見渡す限りさくらだよ」、または「ここにもさくら そこにも、あちらにもさくらが咲いている」
 リフレインする二回目では指し示す方向や範囲、内容を変えて意味に広がりを持たせているということになります。 

 では、「埠頭を渡る風」のリフレインで「もうそれ以上」と2回繰り返される箇所がありますが、これは強調するためでしょうか。それとも意味を変化させていることを知らせるためなのでしょうか。
 ぺいは松任谷由実さんが意味を変化させていることを知らせるための表現だと考えました。

もう それ以上 もう それ以上 やさしくなんか しなくていいのよ
「埠頭を渡る風」作詞:松任谷由実(12枚目シングル東芝EMI 1978.10.5発売)

 そこで、この歌詞の1度目の「それ以上」は、風優哉〔ふうや〕が美帆〔みほ〕に対して、2度目の「それ以上」は美帆〔みほ〕の風優哉〔ふうや〕に対する行為のことを意味しているのではと推測してみました。そうすると、
風優哉〔ふうや〕も、そして美帆〔みほ〕も、もう互いに優しくし合うことなんかしなくていいのよ」という意味になります。このなかば強引な解釈は、後述の-解説編「それ以上」の「それ」とは その1-において、晴海〔はるみ〕の美帆〔みほ〕に対する妬みやひがみ、やっかみという感情が表出してくるので、解釈としてはふさわしくないと判断しました。

 では、美帆〔みほ〕には一切訴えず、風優哉〔ふうや〕だけに晴海〔はるみ〕が訴えた場合について考えてみます。最初に思い付いたのは「私がいるときも、そして、私がいないときも」という解釈でした。私がいるときも、そして、私がいないときも、風優哉〔ふうや〕は美帆〔みほ〕にやさしくなんかしなくていい。見ていようが見ていなかろうがしてほしくないという気持ちの表れとなります。解釈してみたものの、こうなると不許可(禁止)を強調するという意味合いが強まる感じとなります。そして、晴海〔はるみ〕は風優哉〔ふうや〕に対して、ものすごく憤っていて、独占欲が強いような雰囲気が漂ってくるような気がしました。そのため、この解釈はあまり合っていないように感じました。

 そこで、「しなくていい」についていろいろと調べてみることにしました。すると、「しなくていい」という表現は、「不許可(禁止)」、「許容の否定」、「不必要」、「譲歩」という意味を持っていることが分かりました。そして、この4種類の意味から歌詞にふさわしいものを2つ選んでみることにしました。

 まず、「譲歩」の意味からです。「譲歩」は「私は食べなくていい」「私は遊ばなくていい」というように、話し手が譲るという気持ちを表現するためのものです。ところが、歌詞には呼び掛けの「よ」が付いているため、譲歩の意味は当てはまらないということが分かりました。

 次は「不許可(禁止)」です。「不許可(禁止)」は「(わがままをいうなら)、もう食べなくていい!」などと、相手に対して言い渡すような表現となります。しかも、肯定ではなく否定なので、強い口調の印象になってしまいます。もしこれが、肯定ならば文末上昇イントネーションで「ここで、遊んでいいよ」「これ食べていいよ」と柔らかい表現としても表すこともできますが、「しなくていい」という否定表現のためそうはいきません。不許可(禁止)で歌詞を解釈してみると、風優哉〔ふうや〕は美帆〔みほ〕に優しくなんかしては(絶対)だめよ!
という意味になります。この解釈だと、なんだか風優哉〔ふうや〕を束縛することを言い渡すような匂いがして、歌詞の内容とそぐわないように感じました。

 次は「許容の否定」です。意外なことに許容の反対の語が意味ありませんでした。近い言葉を探すと否認となりますが、裁判などで使われる機会が多く、あまりイメージがよくないため、ここでは使いません。ですので、ここでは「許容の否定」のことを「認めない」と表すことにします。許容の否定の例を挙げれば「これは、食べなくていいよ」と食べないことを認める表現となります。これで歌詞を解釈すると、風優哉(ふうや)が美帆〔みほ〕にやさしくすることなんか認めないとなります。認めないのは晴海〔はるみ〕です。自分の中で「彼のそのような行為を許すことができない」と思ってはいますが、彼を強制したり、束縛したりしようとは働き掛けていません。これは歌詞の解釈としてふさわしいように感じました。

 最後は「不必要」です。これは「出張には行かなくていい(行く必要はない)」という意味で使う場合です。これで歌詞を解釈すると、風優哉〔ふうや〕は美帆〔みほ〕にやさしくする必要なんかないという意味になります。この解釈も歌詞の内容に合っていると感じました。

 そして、このふさわしいと感じた2つの順番を考え、両方の意味を持たせて歌詞を解釈した結果、
風優哉〔ふうや〕は美帆〔みほ〕に優しくする必要もないし、やさしくすることなんか認めない
と最終的に落ち着いたのでした。

 

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