「埠頭を渡る風」解説編⑧ 「が」と「は」の違い

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格助詞「が」と取り立て助詞「は」の違い

 「が」は格助詞と呼ばれています。ところが「は」は格助詞ではなく、取り立て助詞と呼ばれています。
 取り立て助詞の「取り立てる」とは、多くの中から特別に取り上げるという意味ですが、何を特別に取り上げているかといえば、出来事に対する話し手の捉え方です。別の言い方をすれば、「別の意味を取り上げて付け加える」ことを指しています。従って、この「は」を使うと、別の意味が暗示として付け加えられます。では、「は」が暗示する別の意味とは何でしょうか。

例えば「とばりがつづいてる」と表現したときと、「とばりはつづいている」と表現したときの違いを考えてみます。

「とばりが」の場合は事実や現象のみが伝わってくるような印象を感じます。では、「とばりは」の場合はどうなるでしょうか。他にも自然の現象はいろいろと目に入っているけれども、その中でも自分は特にとばりについて選択した(切り取った)、という意味が暗示されることになります。

 この取り立て助詞の「は」は、選択肢がある状況(不可分の状況)において、自分はこの「もの」、「こと」、「人」を選択した(切り取った)のだという意味を暗示する役目をすることになります。「私はこのように考えます」の文の「は」には、「ここにはいろいろな意見をもった方々がいますが、(自分が選んだ、あるいは、その他大勢から切り取った)私」、という意味が暗示されるということになります。そして、選択した(切り取った)のですから、排他的な意味も加わってきます。「は」を使う場合は、たくさんの「もの」、「こと」、「人」の候補が思い浮かんでいる中(切り離すことのできないところ)から、一つを選ぶ(切り取る)というイメージになると考えています。

 では、取り立て助詞ではないのですが、格助詞の「が」の上位概念を考えるとすれば、それは何になるでしょうか。それは、選択の余地のない焦点化された、あるいは、頭の中での独占状態となった「もの」「こと」「人」だと考えます。

 例えていえば、望遠鏡や筒を目に当てて「もの」、「こと」、「人」を見た状態だと思っていただくと分かりやすいかもしれません。この状態だと他の「もの」、「こと」、「人」は目に入ってきません。そこだけに焦点やスポットライトを当てて見ているような状態となります。同様に、目に飛び込んでくるような状態でも、他のものを見ることはできません。また、話し手の頭の中にたった一つの「もの」「こと」、「人」、しか浮かんでいない独占状態や他のことが眼中にないときも選択の余地がなく、同様の状態となります。これらの状態にあるときに「が」が使われると考えます。それゆえ、格助詞の「が」の場合は、目に入った事実や現象、思っていることをありのまま、そのまま、伝えるという働きが出てきます。

 昔々あるところにおじいさんとおばあさんがいました。(初めて出てくるので選択肢がない。)

おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯にいきました。(どちらなのか選択肢が生じる)

 また、「彼は足が速い」という場合の「は」は、「ここにはたくさん人がいるけれども私が選ぶとすると彼」といった意味が暗に付け加えられることになります。そして、「足が」の「が」では、足についてだけ焦点化してスポットが当てられ、足以外のことは考えていない状態だと言えます。

 前置きが長くなりましたが、「とばりがつづいてる」となるとどうでしょうか。選択する余地を与えないほど目に入ってきている状況、あるいは、空に焦点を当てて見ている状態、つまり事実、現象として見ている状況だと考えます。このことから、晴海〔はるみ〕は空が青いことを事実として認識している状態だと解釈しました。

 では、これが「とばりは」となるとどうなるでしょうか。「いろいろな色が目に付くけれども、私はこの空とばり」、という意味が付け加えられることになります。候補を探し、候補の中から選択するという時間の余裕があるような表現となり、歌詞の内容と合わなくなってきます。

 これが、「埠頭を渡る風」解説編⑥ 冒頭一行目の「青い」の深い意味 の3つの解釈の中の3つ目が答えになる理由の1つでした。

 

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